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集中講義・課題提示レポート(200412)

民主政治改良計画

九州大学21世紀プログラム一年次在籍

瀬口 典子

 

 

1.社会の問題点

 私が問題視していることは日本国内にも、世界を見渡してみてもたくさんあるが、その中で一番疑問に思うのは「民主政治」のあり方だ。これまでの歴史でも、人々は民主制を実現すべく世界中あちこちで革命を起こし反乱を起こし、血を流して選挙権を勝ち取ってきた。民主制を持つ国は世界中に溢れているし、アメリカは民主的な社会の実現を掲げてイラクに戦争を仕掛けた。

 日本だけに絞って見てみる。日本で「民主政治」が注目され始めたのは明治〜大正時代。初めは裕福な男子にしか選挙権を与えない法律を作ったがために、逆に裕福でないものや女性の注目を浴びるようになったのかなと思う。選挙権をよこせ、普通議会を設置しろという動きはだんだん大きくなり、戦後に至るまで弾圧されながらも戦った人々のおかげで最後には全ての日本人に選挙権が与えられるという現行の政治形態におさまった。独裁的な政治ではなく、国の政治は国民みんなが動かすという「民主政治」は、圧制の元で生きてきた人々には闇から差す光のようだっただろう。

 しかし、民主政治が「実現された」後の日本の政治は、本当に国民の手と意向によって動かされてきたのだろうか?答えはNoだ。現代になっても、国民の意向がきちんと国政に反映されているとは到底思えない。日米安保条約もあれだけの反対運動があったに関わらず未だに健在だし(安保自体は私にとって問題ではない。国民の意見が無視されていた一例として)、イラク戦争にしてもそうだ。反対意見を持つ人々は署名をし、デモをして反抗していたけれどもやはりそんなのはお構い無しである。もっと小さな単位、市町村の政治に目を向けてもそれは同じだ。必要もない所に道路ができる。必要とされている自然が壊される。どんなに住民が政治家に進言しても、それが採用されたというのはなかなか聞かない話である。

 もちろん、国民、自治体の住民だって自分たちの生活が都合よくなることしか基本的には考えていないわけだから、政治家が誰もかれもの意見を政治に取り入れていたら政治にならない。そんな政治は無法地帯を作り出すのとなんら変わらないだろう。今までの論だと政治家は有権者の意見を聞かず好き勝手やっているように聞こえるが、大半の政治家は有権者が思っている以上に政治に対して真面目である。町を少しでもよくしようと睡眠時間を削って安い給料で働きまくる政治家を私は何人も知っている。政治家は政治家なりに頑張っているのである。それなのに、有権者は「政治家は選挙活動ばかりで全然政治活動をやっていない」などと思っているのが現実だ。有権者が投票して選んだはずなのに、政治家と有権者の間には、目に見える壁がある。そこが、私が一番重要視する問題だ。

 

2.問題の背景

 理想だったはずの民主政治がこんな悲惨なことになってしまっているのは、実は「一般人が投票して政治をする人を決める」という、民主政治の根本にある。

 例えば、私が福岡市の政治に変革をもたらして、人々がもっとニコニコ笑って暮らせるマチにしたいと考えたとする(19歳では被選挙権がないという指摘は、とりあえず今はしない)。そうしたらまずは、政治家、例えば、せめて福岡市議会議員にならなくてはならない。議員になるためには、選挙で有権者にたくさん票を入れてもらって、当選しなくてはならない。だったら、よりよいマチ作りの第一歩は、自分の思いをあちこちで宣伝して回ることになる。出来るだけ頼り甲斐のある風に見えなくてはいけないので外見を取り繕って、喋り方も研究する。顔を覚えて頂きたいのでポスターやビラ、パンフレットなんかも配りまくる。これはいわゆる選挙活動だ。選挙活動には(そもそも立候補すること自体に)お金がかかる。私の場合はお金なんかほとんど無いわけだから、資金集めにも奔走しなくてはならない。

何とかそうやって議員になっても、これらは続けなくてはならない仕事である。いくら真面目に頑張ったとしても、4年そこらの任期でマチが劇的に変わるとは思えないので、次の選挙でも勝って議員を続ける必要があるからだ。そして、有権者はそんな私、瀬口議員の姿を見て思うのだ。「瀬口は選挙のことしか考えてなくて、きっと福岡市のことなんか考えてはいないつまらない奴だ」と。

しかし、じゃあ選挙活動に値する行為はいっさいやめて、市政に全力を傾けようということにしたとしよう。少しでも議員である時間を無駄にしてはならないので、次の選挙では、ビラ配りも挨拶回りも街頭演説もやめよう。すると、存在自体が忘れ去られ、落選して政治の場を離れることになる。目標は達成されず、福岡市は今のまま。私が市民から取り入れてきた意見も全て水の泡である。

こんな悲しい結末になってしまうのは、有権者が政治の現場を何も知らないからだ。しかも、有権者が関心を持って政治を見張っていないからいけないというのではない。どんなに福岡市の未来を気にかけてチェックしていようとも、見えないのだ。政治に真剣な有権者の目に触れるのは選挙活動だけで、政治家が役所の役員と喧嘩しながらバリアフリーなマチ作りのために予算を搾り出させようとする会議の場などではない。議会の様子は見ようと思えば見られるけれど、議会はほとんどが決定事項の報告などで、実際の「マチを作る・動かす」という作業は本当に小さな、全然別のところで進んでいる。その場を見ていれば、何故自分の意見が政治に反映されないのか、何故税金が上がるのかも判るし、それでも気に入らなければ反論のしようもある。しかし、見えない。そしてそんな「現場」を有権者に見てもらえないから、政治家は必死に選挙活動をするしか自分の信念を貫く方法がないのである。議員という職を持つ人に話を聞くと、大体の人はこの悪循環のことに触れる。本当は選挙活動なんかよりもっと他の政治活動をしたいけれど、これをやらないことにはその政治活動を続けられないのだと。これは、大正デモクラシーで弾圧されながら闘った人々、戦後にデモを繰り返して選挙権を勝ち取った人々の望んだ民主政治ではないのではないだろうか?

 

3.解決方法

 これを解決するには、とにかく政治の現場を有権者に見てもらうしかない。そのためには、政治が動く場を、狭い会議室や接待まがいの料亭などから、有権者の目に触れる場に移すことが必要になる。かといって、今の議会場や役所以外に「政治の場」らしき新しい施設を作っても、誰も来やしないだろう。議会との違いが判らないからだ。それに、施設を作るにはお金がいる。しかも、使われるのは税金である。そんなことに税金を使うのは馬鹿げている。だったら、現存している場所で役所の人間や企業家と政治家の喧嘩をやればいいだけの話だ。有権者の生活に密着していて、簡単に入れる場所。そこで話し合いをして頂けばいい。

そういう条件を備えた場所として私が思いついたのは、学校だ。小学校、中学校、高校、大学。公立の物だけでも日本には数え切れないほどある公的な施設で、かつ、最近の少子化のおかげで特に小学校や中学校は教室がたくさん余っている。そこを「○○町会議室」とでも名札を下げて使えばいい。当然、この部屋を使っているときは一般公開だ。そして、学校が子どもに持たせる親への配布物(学校通信など)に、その部屋の使用状況をちょっと書き足すのだ。それだけで政治活動をやっているという報告になる。政治家は学校まで足を運ぶ手間が少し増える代わりに、大幅に選挙活動の時間と費用を減らせる。

大学には有権者になったばかりの学生が山ほどいる。政治に一番興味を持ってもらわなくてはならない世代だ。彼らが日本の将来を背負っていると言っても過言ではない。さらに、小中高には子どもと教師しかいないとも思ったら大間違い。学校があるということは、歩いて通える範囲の所にその親たちが子どもの数の数倍暮らしているのである。働き盛りの親世代は忙しくて、毎日子どもの通う学校に足を運びはしないだろうが、高齢化が進んでいるという現在、子どものおじいちゃん、おばあちゃんは家でのんびりしている。その人たちに本当の話し合いの場を見てもらうだけでもいい。老人たちは学校で政治家と公務員の仁義なき闘いを見、その状況や感想を家に持ち帰って息子娘(=若い有権者)に語るだろう。家庭で政治の話をしてもらえるようになれば、自然と有権者の意識も政治に向き、知識もついてくるのではないだろうか。

学校に政治を持ち込むことで、まだ選挙権を持たない子どもたちにも「自分の町がどうやって出来ていくのか」という身近な所から、政治の世界を実地で教えることが出来る。会議の様子を、社会の時間を少し割いてでも教室を移動して見に行って、疑問があれば会議の終わった後の議員にでも質問させればいい。上手くいけば、中高で「公民」だの「政治経済」だのという科目を教えなくてよくなるかもしれない。外国の子どもたちは、日本では考えられないくらい政治に興味を持ち、意見を持ち、平然と首相や大統領に自分の政治的な意見をしたためた手紙やメールを送りつける。そのくらいの気概は日本の子どもにだってあっていいはずだ。彼らが成長して、選挙権を持つ大人や政治家になっていくのだから。海外では子どもにどういった形で政治に関する教育をしているのか私は知らないけれど、百聞は一見にしかず、そんな教育もあっていいではないかと思う。理科で生き物の体の構造を知るためにカエルをバラバラに解剖するのが良くて、政治の構造を知るために政治を解体して見てみるのが悪いという道理は通らない。

 

4.最後に

現代の日本は、「政治」という言葉に対して「危ない」だの「汚い」だのというイメージを持つ人があまりに多い。私個人の話をすると、私はNPO団体に所属して議員の所に学生をインターンに行かせるという事業のスタッフをしているが、大学内でその活動の宣伝やインターン生の募集をしようとすると、必ず顔をしかめる大人たちに出会う。彼らの顔には「学生を怪しい政治の世界に引き込もうとしてるんじゃないの」とハッキリ書いてあるのだ。ただ政治を行っている人々に学生をついて回らせようというだけの事業だが、はっきり拒絶反応を示す学生も多い。親たちは子どもに、政治家にはなるな、関わるな、あんな恐ろしい世界にはあまり触れない方がいいと教える(私もこのNPOに参加したばかりの頃、自分の親にそう言われてショックを受けた)。実際にヤクザと手を組んで陰で人を殺すような政治かもいれば、金に塗れた汚い政治をしている政治家もいるのだからそれは仕方ないのかもしれない。選挙活動ばかりに心力を注ぎ、本業であるはずの政治が疎かになっている哀れな政治家も多い。しかし、隠れて(隠れているつもりはないのかもしれないが)政治をするのが当たり前になっているから金と時間がかかるし、熱い政治家に混じっている、いわゆる「ダメ政治家」をのさばらせるのだ。現在の民主政治の中で政治家は、誰の為にもならない政治をしている。有権者だけでなく、自分自身のためにも、である。

政治の場を公開することが基本になれば、コソコソと陰で何かしている政治家は今よりも目立つようになる。やりにくいだろう。しかし、人前で話すことも出来ないような政策はろくな物ではない。根拠が明確でかつやましいところが無ければ、学校の一教室で学生と親たちに見つめられながらでも、堂々と政策を語って見せてくれるはずだ。そんな政治家の姿が、日本人全体の政治に対する意識を変えてくれると思う。